備忘録

徒然なるままに。

気付きつつある「love me, I love you」の良さと自戒

再びブログ更新の間が空いてしまった。

まぁ緩やかに継続できたらと思う。

 

今回はリハビリがてら趣味の話。

 

僕はB'zというバンドが小さいころから好きだ。

小中高と暇さえあれば耳にイヤホンを挿してはB'zに浸ってきた。だが若さというかなんというか曲に対して「かっこいいな」という感覚は抱けど歌詞を嗜むだとか「理解する」というところは中々してこなかった。まぁそんなに音楽鑑賞に対して力まずともいいわけでずっとなんとなーく歌詞もフーンという感じで聞いてきたわけだが、歳を一個また一個と取るにつれ所謂経験値みたいなものが増えてきて社会だとか世界だとか自分だとか今まで見えてこなかったものが(辛うじて)見えてくるようになってきた。

そんな中で自分が触れてきた音楽についても少しずつ「あぁ、このことを歌っていたのか」とか再考するようになった。今回はその中でも表題に挙げたB'zの「love me, I love you」について見えてきたものを書いてみようと思う。

あくまでも主観的に見えてきたものにすぎずお世辞にも考察のような立派なものにはならないと思うがご容赦願いたい(予防線)。

 

学生時代の頃の僕はあまり歌詞を熟読したりしなかった(最新曲とかはCD買ったときに歌詞カード読んでいたけど)ので特に昔の曲、B'zならば初期の曲、についてはほとんど雰囲気で聞いていた。そんな僕は「love me, I love you」を「恋愛の曲」と思い込んでいた。愛は愛でも恋が付く方の愛、恋愛だと(勿論そういった解釈もあるやもしれんが)。理由は単純で「loveって言っとるしなぁ」程度。強いて言うなら曲調がB'zの恋心に近く感じていたことも要因の一つかもしれない。

だが最近になってよくよく歌詞を読み直してみるとあらビックリ。こりゃ「(普遍的な)愛」の曲じゃないか。

この曲の歌詞について「普遍的な愛」を歌ったものだと捉えるに至ったのは自分のスタンスみたいなものが歳を取ることでハッキリしてきたのが大きい。

僕は比較的趣味が多い方(当社比)であっちこっちにライブに行ったかと思えば家に籠ってゲームをしてはガチャを回しかと思えば今度はどっか行って美味しいものを食べ…中々浪費の激しい生き方をしている(そのうちのほとんどはソシャゲのガチャに吸われているわけだが)。世の中には節約・貯金が好きな人もいるかと思うがそういうことにはまったく縁のない真逆の生き方をしている。おかげで月末の口座残高には目も当てられない。

僕はこうした生き方についてある考えを持っている。人からすればただのガチャ狂いだの浪費家だのように見えるやもしれんしまぁ否定はしない。だがこうした「お金を使うこと」は「(自分が)人にお金を使ってもらうために大切なこと」だと考えている。お金を使い桁の少ない残高に打ちひしがれること=良いこと、とまでは言わないが「他者(創作物やコンテンツでもなんでも)にお金を使うこと」を知らない人が何か自分がやりたいことがあるときに「人にお金を使ってもらえるようなことをする」のは難しいんじゃないか、使い方を知る事で初めて「使われ方」を知ることが出来るんじゃないかと思っている。

現代はゲームにせよ動画にせよ多くのコンテンツが無料で体験できる時代になっている。ネットの普及も相まってコンテンツ供給は留まることを知らない一方で、ユーザーの可処分エネルギー(時間・お金)は限りがある。とどのつまり

・コンテンツ体験に対する課金ハードルは高まっている

・供給は指数関数的に伸びる一方でユーザーの可処分エネルギーには限りがある

ことが顕著になっていると考えている。そんな時代で自分のコンテンツに対して如何に他者が課金をしてくれるかは課金者目線にならないと分からないがその目線は現代でコンテンツ供給者として生きるには不可欠ではないかと。そう思っている。

この考え方は社会人としては当たり前の考えなんじゃないかと思う。自分の仕事を如何にお金にするか。そうやって会社ひいては資本主義社会は成り立つものなんじゃなかろうかと。

だが世間を見渡してみればそううまく事が運んでいないところは多いと思う。ソシャゲなんかはわかりやすいんじゃないか。ユーザー視点での楽しさやゲーム体験の追求を欠くゲームはすぐに「サ終」していく。基本プレイ無料のコンテンツでありユーザー課金が生命線のソシャゲにおおいてどうすればユーザーが膨大なコンテンツの中から自分たちの作るゲームに課金をしてくれるのか。そういった目線を欠いて終了していくゲームは後を絶たない。

それは結局、「自分が惜しまずお金を費やすような経験をしたことがあるかどうか」がカギだと思っている。

 

さて、長々訳の分からん話をしたところで話をlove me, I love youに戻そうと思う。

この曲のサビでこんな歌詞がある。

"love me けちってないで

僕はきっと愛をもっと出せる

I love you おごらせてるだけじゃ

そのうちだれもいなくなるよ"

その前の1番では「人(自分)の心を本当に埋められるのは誰(何)だろうね?」と投げかけている中でこのサビ、少し上で書いた考えにつながるんじゃないかと思った(B'zのお二人が何を思って書いたのかとそれてしまうかもしれないが)。

自分の足りない何かをどうやって埋める?誰かが埋めてくれることを待つのか?それとも…?

愛される自分になるために惜しまないで、そうすればみんなついてくるだろうよ。

なんかそんなことを歌っているのかなーと。

自己愛に近いかもしれないが自己愛を達成して他人を愛することが出来て誰かに愛されて、そのためには自分から「愛」を出していかないと変わらない。その「愛」の一つの具現的なカタチを上でつらつら書いたような「お金」と読み替えることでこの曲を初めて「読む」ことが出来たと感じた。

 

「推しは推せる時に推せ」なんていう言葉があるが自分や自分のコンテンツが愛されるためには誰かを愛する・推す経験があったほうがいいと、そう思って出来る限り自分の可処分エネルギーを外に放出することを惜しまないように生きている。

そのおかげというかなんというか、前述のようにライブに行ったり映画を見たりゲームをしたり…色々な経験が出来ているのは勿論自分のやりたいことをカタチにすることから人生を色づかせることが出来ているようなそんな手触りみたいな何かを少しずつ、何とか得ることが出来つつある。

love me, I love you」が自分のそんな生き方をどこか肯定してくれるような、言い聞かせにも近いけれど、どこかそんな感じがして嬉しくなった。そんな秋である。

 

と、まぁなんとも長ったらしい文章を書くことで浪費的な人生を肯定した気分になって今日もまたガチャと残高を眺める自分の目を回すのである。上手いことでも言ったつもりか?